
寿豊郷は日本統治時代には「寿役農荘」という名称で、鯉魚山の末端に位置することから通称「鯉魚尾」とも呼ばれていました。土地が低く窪地になっていて虫が非常に多いことから、この土地が栄えるようにとの願いを込めて寿豊という名前が付けられました。昔寿豊にはアミ族の集会所があっただけですが、その歴史を辿ることのできる古い資料はありません。日本が降参して中華民国の統治下になると地名が寿豊郷に改められ、それに前後して米桟・塩寮・樹湖といった3つの村が増設されました。そして1950年に政府は地方自治を実施して政治を行う権利を人民に返し、寿豊郷の郷政も郷民が自分たちで管理することになり、選挙で郷長や議員を選んで郷政の構築と発展を推し進め、今に至ります。