
清朝統治時代、当局は鎖山政策を取っており、花蓮に開墾にやってくる漢民族はほんのわずかしかいませんでした。そして漢民族による西部の開発が飽和状態に近づいた18世紀末清朝嘉慶帝の時代にようやく第1波の移民が葛瑪蘭(カバラン)地区からやって来て花蓮渓の河口一帯に移り住んだと言われています。漢民族の移民たちは、ごうごうと流れる花蓮渓が勢いよく海に流れ込み東部の外海を流れる暖流の黒潮と交わる様子や、プレートが衝突して形成された特殊な海岸地形、渓流の水と海の波が互いに激しくぶつかり合いながら回旋する様子を目にし、この地を「迴瀾」と呼ぶようになりました。私たちがよく知る現在の「花蓮」という名称は、「洄瀾」の台湾語の発音が元となっています。